昭和五十六年五月二十七日 朝の御理解


御理解第二十九節
「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ桜の花は早う散る。
  梅の花は苦労して居るから永う散らぬ」


梅の花の信心 桜の花の信心という事をここに云っておられますが梅の花の信心というのは私はお徳を受けていく信心だと思います。桜の花の信心というのはおかげだけで終わってしまう信心を云うのだと思うんです。おかげだけを受けたのではもう、それこそパアッとおかげを頂いてもそれが桜の花のように散ってしまうという事ではなりません。梅の花の信心というのは お徳を受けるという信心ですから、その内容がやはり辛抱力を作る事。辛抱力がそのままお徳になるという事。そこで梅の花の信心というのはやはり まあ寒中にさきがけて咲く花ですが、寒中に蕾を持ち、そしてそれがふくらみ花ともなり、そしてそれが実りにまでなっていくという所にね、いわゆる梅干しという いうならばお徳になってくる、いつまで置いても悪くならないというね、どういう病人に与えてもいいというような梅の実的お徳 御神徳というのが頂ける。どうしてもね
 おかげを頂いて辛抱力を作ると云う事です。だからそのいうなら家は何十年間親の代から信心しとりますというて、だらだらとした信心が続いておるという事ではないのですよね、その内容にはいわゆる梅の花が蕾んで咲いて実るまでの過程を思うたらいいのです。ね これは皆おかげから入ってくるという人が多いし、又おかげを受けなければ神様を本当には分かりません。だからおかげを受けてもよいけれども そのおかげを頂く信心を通してね 信心が分かる。その信心が分かる為にはやはり辛抱力がいる。自分の願い 思いがそのまま適うという事ではないですからね、適うたり適わなかったりね。だから適うとか適わないという事ではなくて、信心がいよいよ身についていくという事なんです。その信心が身について行くという事が やはり辛抱がいるんです。
 昨日は久留米の初代の帰幽日で、おかげを頂きましたがやっぱり初代の石橋先生の御信心が、信心辛抱といわれておりますが、信心辛抱のお徳というものを教会の中にありありと見、又は感じる事が出来ます。まあ合楽もやはり久留米の関係手続きでございますからまあいうならば、久留米の先生の信心の流れというものが合楽にもあるのです。私の信心をじっとこう振り返ってみると、まあ極端にまあ今日の御理解から頂いていうならば信心辛抱の御教えを行じてきて、はじめて今日の合楽があり、いわゆる合楽で云われる合楽理念も又その信心辛抱の中から生まれているんだと云う事になります。ね、信心辛抱、いわゆる久留米の教会にももう初代、二代、三代四代目ですか今は。四代目の羽犬塚から御養子、大分が御親戚ですから、から こえております。ここの幹三郎と同期学院が。お若い先生です。けれどもいつも私は、いつもというがまあ、あのまあ去年からその先生を知ったわけですけれども、必ずこの開教記念式とそれから親先生の帰幽日のお祭、帰幽祭ですね には必ず私がおかげを頂くのですが去年も先生の一口のお話ぢゃああったけれども はあやっぱりお徳だなあ、四代目もしっかりして このまま育っていかれるなら、本当に立派な久留米教会の後継者として相応しい方だなあと思うたが今年はなお又、いよいよそれを感じました。
 本当に生き生きとしてね 何というか溌刺としておられます。
 それでいて又一口のお話ぢゃありますけれども ねそれはまだお若いから出けておられるはずもないですけれども、一生懸命に御用に取り組んで居られるです。そして出けんなりにでも教に本気で取り組んでおりますという話をなさいました。ね 教に取り組んで失敗される事もあろう、又いろいろの事がありましょうけれども、それに取り組んでおられるという話が生き生きとして、しかとうもない(つまらないの意)話を嘘ばっかりのごたる話よりよっぽどよかのち云うてから帰りがけ云うて帰って来た事でしたけれども、ね。信心辛抱と云うても だらだらと続いておるという事ではなくて、生き生きとしていつも焦点を持って、それに向かって進んでおる
 水水しさというものが なからなければならないと云う事ですね。信心辛抱。たしかに辛抱出けんような時もあったけれども、ね、まあおかげでここでは黙って治める土(どろ)の信心といったような信心の まあ大元は信心辛抱にあると、その信心辛抱の内容の中にいわば黙って治めるというような、もう何んと申しますかね、
 それも それに撤するというね 生き方が合楽に生まれたんです。ね 私共もずい分おかげを頂いてまいりました。もう本当にお話の材料になるような奇跡的なおかげも頂いてまいりました。
 けれどもそういうおかげを頂いておるだけで、私の信心が次の難儀が続いた時に止めて居ったら今日の合楽は生まれてません。
 桜の花の信心で終わっておってしまっとつたでしょう。けれどもそこから むしろ生き生きとして信心辛抱のおかげが今日の合楽の御比礼であり 合楽理念のまあいうならば母体のようなものであり内容は、信心辛抱にあったと。長く続いておるだけではない。
 今日はここでは桜の花の信心より梅の花の信心をせよと云って居られますから、まあ桜の信心はおいて、そして梅の花の信心になれという事だと思いますけれども、それを今日は桜の花の信心はただお願いをした、おかげを頂いた。いうならおかげの花が咲いたというただけで、それがぱあっと散ってしもうて、そのおかげも、ね
 おかげと実感出けないような事になり果てていかんように、ね、いわゆるおかげを頂きながら信心の、いうならシン所というものを極めさしてもらい、そのシン所をね、それを実験実証して行くその過程が辛抱なんです。ね、一辺こうやって教を頂いて行じてこうなったぢゃなくて、出来んならばそれが本当な事だと分かったならばね それをいうなら それこそ小野道風ぢゃないですけれどもね、飛びついても飛びついても、なかなか飛びつけなかったんだけれども、だんだん度を重ねていっとる中にとうとう飛び付いてしまったというようにですね、その私は稽古には辛抱力がいると、そこから梅の花の信心であり ね いうなら花が散っても次には実るというお徳の世界に住む事が出ける。信心辛抱、長年信心をしておるという事ではない、生き生きとして水々しい、いつもそこに焦点をおいて、その焦点に向かって進んで行っておる。ね、そこによし出ける出けんは別としてそういうくり返し、くり返し稽古して行く中に、一つ一つ自分の血に肉になっていく。それこそ辛抱、久留米の初代のお徳ぢゃないですけれども 信心辛抱というてもう辛抱するという事すらなくなってくる世界がある。御神徳の世界です。
 梅の花の信心が いうならば梅の実として実った時の信心を云うんだと思うですね。
                       どうぞ